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僕の人生補完計画

初詣で神様にお願いごとを効果的に届ける最強のメソッド

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新しい年となり、多くの日本国民が行う正月のド定番イベントと言えば「初詣」。

新型株が依然流行中とは言え、今年は昨年に比べて各地で人手が増えているそうな。
かくいう僕も今日、家族と一緒に近所の神社に初詣に行ってきた。

うちの家系は代々浄土宗をメイン宗教(メインとサブという概念があること自体、キリスト・イスラム教圏では異質なことなのかも)としてきたけれども、葬式法事以外は一向にかかわりもなく、僕自身、宗教というものにあまり関心がない。一方で無神論者かというとそうでもなく、どちらかというと「万物にはそれぞれの精霊が宿っている」みたいな古の日本でも信奉されてきたいわゆる「八百万の神様」を敬うアニミズム的な考え方には割と抵抗がない方だったりする。

そんな僕がなぜ初詣なんかに?と思うが、一つは「家族が行きたがっているからとりあえずついていく」という身もふたもない理由。もう一つが「八百万も神様がいるなら、お願い事を聞く担当の神様くらいいてもおかしくないだろ」みたいなかなりご都合主義な考え方を持っていたりする。

以降、この記事では神様と言えばこのお願い事担当の神様を指すものとする。

 

1.神様に対する考え方

初詣でどんなことを願うかということを考えたとき、まずこの神様のキャパシティというか、懐の深さについて考える。今日行った近所の神社でも、小さいとはいえ100人前後がすでに並んでいた。一体日本人の中でどれくらいの人が初詣に行くのかは知らないが、ここはざっと2割が行くと仮定する。日本の人口が約1.2億人、そのうち2割なら2,400万人となり、お願いの数も2,400万件かそれ以上になる。もし自分が神様だったらどう思うだろう。普段は見向きもしないくせに、正月だからという理由でフラッと来てたかだか数円~数百円で「あれがほしいこれがほしい」「ああなりたいこうなりたい」という我欲にまみれたお願い事を2,400万件+αを正月の約3日間で浴びせかけられるのだ。たまったものではない。よほど神様の懐が深くない限り「うぜぇ」と思うだろう。僕が神様だったら間違いなく思う。おそらくではあるが、大半のお願い事はスルーされているに違いない。中には「世界平和」なんてべたべたな(大事だけどさ)お願いをする人も相当数いると思う。が、そこは神様。聞き飽きているに違いない。「やってるし!世界が平和になるように努力してるし!ってかそういう漠然としたお願い、どっから手つけていいかわかんないからもうちょっと具体的に言ってくんない?!」みたいな、できない新入社員のボヤっとした相談に頭を抱える先輩社員の気持ちになっていると想像できる。

 

2.うんざりモードの神様に何を願うか

そんなうんざりモードの神様にどんな風にお願い事をすれば効果的だろう(もはやこの打算にまみれた一文が神様の逆鱗に触れるほどうざい考え方なのかもしれない)。せっかくお参りするのだから、せめて神様の耳には届いてほしい。そこで僕はまず、冒頭で感謝の意を述べる。「昨年はいろいろとありがとうございました。」てな感じで。去年も運よく神様に願いを聞いてもらって、何かしらの取り計らいをしてもらったかもしれないのに、例も言わずに次のお願いをするなんて不躾な真似はしない。まずは感謝。神様に「お、こいつわかってんじゃん」と思わせる作戦である。

次に他者のことを願う。僕の場合は家族だ。「妻と娘、息子をどうかお守りください。」と自分以外の人間について心を配ることで、神様もこちらにやや興味を示し始めるはずだ。「こいつは他者を思う慈悲の気持ちを持ち合わせているなかなかできた人間であるな」と。無数の自己中心的な我欲まみれのくすんだお願い事の数々の中でぼんやりと光り輝く「他者を思う気持ち」で神様の注意を一気に引き付ける。こうなれば後は畳みかけるのみだ。

神様の注意を十分に引き付けたところで、一気に核心に迫る。
そのお願い事とは、こうだ。

「今年も一生懸命頑張りますから、どうか見ていてください。」

これよこれ。
他力本願な欲まみれのお願い事を一方的に述べるにあらず。まずは自分で頑張ると宣言しつつ、それをただ見ていてくれと願うのみ。これ以上簡潔かつ具体的、しかも神様に負担をかけないお願いもあるだろうか?だって「見ててくれ」って頼んだだけだもの。こんな簡単なことでいいならと、神様も僕にある程度注目してくれるに違いない。だって僕は頑張るだけ。神様はそれを見てるだけ。

そんなことを願ってどうするんだと思うなかれ。これこそが僕の狙いだ。僕は僕の願望に沿ってただ頑張り続ける。神様も、「よしよし、がんばっとるな」と観察日記の一つでもつけてくれよう。そうしているうちにだんだんと僕に感情移入し、そして日々の僕の努力を見た神様は、それこそ心を動かされてピンチの時には手を差し伸べてくれるに違いない!

なんと、僕は僕の目標に向かって努力するだけで、神様を味方につけることが可能になるのだ。まさにスキのない完璧な願い事。

そして翌年の初詣で再び感謝し、また見てくれるよう頼む。完全な勝ちパターン。

 

3.このメソッドに至った経緯

「神様の気を引く」というヒントを得たきっかけは、ベストセラーにもなったのでご存じの人も多いかと思う、水野敬也著「夢をかなえるゾウ」という小説だ。夢を諦めて鬱屈した日々を送っている主人公の元にある日、人の夢をかなえるガネーシャという神様がやってくる。その神様は普段いろんな人間のお願い事を聞いては気まぐれにかなえるのだが、その主人公の元にやってきたきっかけが「おなら」だった。人生に絶望し、酒に酔った主人公がたまたま、ゾウの置物(=ガネーシャ)にお願いをした後、酔いつぶれてした「寝屁」だった。あまりに間抜けな音だったので面白く、思わず来てしまったのだという。これを読んだとき「これだ!」と思った。神様の注意を引けば願いが叶いやすくなると踏んだのである。これが簡単ではあるが、「まずはお礼を言う」という方法に至った経緯だ。

そしてもう一つ。

大学生の時、母のがんが再発した。検査の漏れのせいか、発見したときはすでに脳に転移して手遅れの状態だった。未承認の抗がん剤やガンマナイフなど、高額な費用が掛かる治療を施したものの、治る見込みはほぼないというのが医者の意見だった。おそらく父は余命についてある程度聞かされてたのかもしれないが、僕と妹はそれについては聞かされず、また、母に残された時間を知るのが怖くて聞くことができなかった。末期のガンは痛みを伴う。医療用のモルヒネで痛みを緩和させてはいたが、症状は快方に向かうことはなく、いよいよというときになって上野にある緩和ケア専門の病院に入れることになった。もはや治療のためではなく、人格を飛ばすともいわれる末期がんの痛みを取り除き、残りの人生を安らかに終えていくための入院だった。

僕はその時すでに社会人になっており、他県で仕事をしていた関係で毎週土曜に高速バスでお見舞いに向かい、その日は実家に泊まるという生活を数カ月続けた。その時、たまたま病院と最寄り駅の間にあった神社に毎回、父と手を合わせに行っていた。もはや治ることを願うこともなく「僕のことはいい。だから母を苦しませないでくれ」と願うばかりだった。その頃から、僕は神様に自分のことよりも他者のことについてお願いをするようになった。

母は2008年の6月に息を引き取った。仕事中に危篤の連絡を受けて、3時間かけて新幹線で向かったのだが、途中のことはあまり覚えていない。ただ、母は待ってくれていた。僕が病院についた1時間後くらいに、僕と父、妹に看取られながら母は逝った。最期は意識は朦朧としていたものの、特に苦しむ様子もなく徐々に心拍が少なくなっていった。安らかな死だったと思う。本当に神様なるものがいるのであれば、あの時、願いを一つかなえてくれたのだと思う。

だから僕は今も神様にお礼を言い、自分以外についてお願いをし、自分のことは見てもらうだけにすることにしている。冗談めかして「効果的なお願いの方法」などと書いたが、あの時願いをかなえてもらったのに、そう何度も願い事をするほどずうずうしい人間にはなれないという気持ちの方が、本音なのかもしれない。

 

新年あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

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