【雑記】知らない人の日常を静かに読む「純日記」というジャンル。
つい最近、はてなブログのトップに「純日記」についての特集ページが掲載されていた。
純日記とは、日記帳に書くような今日あった出来事、ふと思ったことなどを取り留めもなく書くジャンル。
読んでいると、他人の日記帳をのぞき見しているような不思議な気持ちになる。
何もなかったことが、あったこと
純日記ブログに書かれている内容は様々だが、共通しているのは日常についてシンプルにつづっているということ。
今日起こった出来事や考え、体調の変化や天気のこと、おいしかった料理や変な形の雲を見つけたこと。
凝ったデザインでもなく、構成が練られているわけでもなく、「映える」写真が掲載されているわけでもない。
本当に淡々と、ほとんど文字だけで書かれている日記に、最近妙に惹かれるものがある。
そこに学びも教訓もなくていい
ブログを公開している身として、ブログに対してある種の偏見を持っていたことに気づいた。
記事を書くとき、誰かの役に立つ情報や学びにつながる自分の考えをわかりやすくまとめたり、誰かを楽しませる内容を書く必要があると、いつの間にか勝手に決めつけていた。
誰かにとって有益な情報を発信することとが、ブログが持つ役割だと思い込んでいた。
だけど純日記にはそんなものはほとんどない。乱暴な言い方だけど情報としては何の役にも立たない。
そこには何の有益な情報も学びにつながる深い洞察もないのに、妙に人の心を引き付ける「何か」があることに今さらながら気づいた。
ただその人の暮らしを垣間見るという楽しみ方
知らない人の日常やふと思ったことなど、読んだところで役に立たないはずなのに、つい読んでしまう。
読者登録しているブログの中にも、今となっては「純日記」とカテゴライズできるブログも多数あった。
なぜ純日記は僕の心を引き付けるのだろうと考えた。
ひとつは、知らない人の日常を垣間見るという楽しさ。
全く知らない人の日常を、文字で書かれた情報+想像で補完して追体験する。
書いた人の人となりを文字情報からちょっとずつ組み立てる楽しみだ。
一方で、他人の日記を覗き見るという、ごくごく薄い背徳感を覚える。
実際は著者が全世界に向けて公開しているのだから、覗き見るも何もないはずなのに。
他愛もない文章の中にふとした瞬間に現れる、その人の感情の機微を読み取った時の、何とも言えぬ「見つけた」感も最近ではクセになりつつある。
書き手も読み手も力を抜いて
しっかりと作り込まれたブログに比べて、基本的に内容が薄い。
貶しているわけではなく、頭を使わなくてもしみこむように文章が頭に入ってくる。
難しい内容ではないので、多少頭が疲れている時でもすいすい読める手軽さがあるのもいい。
僕は読者登録しているブログを会社から帰って、一人で晩御飯を食べながら読むことが多い。
仕事で疲れているときなど、内容が濃く情報が充実している記事を読むのがキツい時がしばしばある。
そんな時でも、純日記は適度なライトさで、力を抜いて読むことができる。
おそらく書き手も、頭に思い浮かんだ文章を力を抜いて書いているのではないかと想像している。
その温度感が絶妙なのが、またいい。
純日記と呼ばれるジャンルを読んでいるときの、あの言語化しづらい不思議な感覚をお伝えするのは非常に難しい。
これからも純日記を読みながら、この感情の整理をしていこうと思う。
また、自分でも純日記なるものを書いてみたいと思い始めた。
せっかくなので時々は、このブログでも公開したいなと思い少しずつ書き溜めている。